地域一番ディレクター井ノ上 貴之

略歴

鹿児島県出身。鹿児島大学を卒業後、大学院に進学、ディープラーニングに関わる研究に従事。修了後、富士通(株)に新卒で入社。
入社後、業務システムの中核を担うソフトウェアの開発に従事し、入社3年目で海外向け財務ソフトウェアの開発に携わる。海外のパートナーと組んで、欧州で主要国の商談を次々に獲得。海外で60カ国以上の導入し、社長賞を獲得。国際大会やミーティングで発表し、財務分野でのデータの二次利用性の向上や技術の発展のための、啓蒙活動を行う。

国内外での活躍が認められ、社内のグローバル研修に選抜、アメリカにて最先端の開発手法やマネジメント手法を学び、帰国後、社内の開発プロセスとプロジェクトマネジメントの改善に従事。

最先端の開発技術にとどまらず、組織マネジメントや品質マネジメントを学ぶことで、マネジメントの奥深さに気づき転職を決意。代表の岩渕とは趣味のバスケットボールを通じて親交があり、経営戦略研究所の理念・ビジョンに感銘を受け、入社に至る。
IT業界で培った知識・経験を生かし、医院を地域一番へと導く。

井ノ上 貴之をより知って頂くために

幼少期

鹿児島出身で、幼少時代は鹿児島最南端の島である与論島で過ごした時期もあります。自然溢れる環境の中で、活発に行動していたため、身体を動かすことがなによりも好きでした。

木に登ってブランコ遊びをしたり、海でお手製のボートを作って遊んだりと、今思うと危険なことをやっていたなと思います。
学校が終わってもすぐには家には帰らず、友達と遊び呆けて、門限を過ぎてから帰ると、いつも母親が門の前で待ち構えていて、怒られていたのを記憶しています。
かなりやんちゃな少年時代でした。

バスケットボールとの出会い

それまで、特定のスポーツであったり、習いごとは、まったくと言っていいほど、長続きしていませんでした。サッカー、水泳、書道など、友達に誘われてなんとなく始めたものでしたが、きっかけが「ただ友達と同じことがやりたい。」というものだったので、結局、楽しみを見いだせず、すぐにやめていました。

ですが、バスケットボールだけは違いました。

こんな楽しいスポーツがあるのかと、夢中になっていました。

初めは、友達と一緒に楽しく遊んでいましたが、そのうち、「もっと上手になりたい。」と思うようになりました。練習するために自分のボールを欲しくなり、父親に相談したところ、「どうせ、すぐにやらなくなるんだからだめだ。」と断られました。「今度は、違う。」と何度もねだったところ、「じゃあ、本気なところをみせてみろ。次の学校のテストで100点を取ったら、買ってやる。」と言われました。

みなさん、「なんだ100点ぐらい、誰だって取ったことあるよ。」と思ったのではないでしょうか?

いえ、父親が言ったのは、一番苦手な科目、国語で100点を取れということでした。

当時、私は数学、理科は得意だったのですが、国語は大の苦手で、100点はほど遠いレベルでした。ですが、バスケットボールをやりたい一心に勉強に励み、無事に100点を取ることができました。好きなことのためなら、苦手なことも克服できる、という一つの成功体験になりました。

その後も、中学、高校と部活に明け暮れ、社会人になった今でもバスケットボールは続けています。

それまで、長続きしなかった私ですが、バスケットボールを通じて、継続することで得られるものの大切さ、また、途中で投げ出さずに、一つのことを20年以上も続けていることは、大きな自信にも繋がっています。

その後、バスケットボールが私の人生を変えることにもなります。

苦難の高校時代

中学時代はチームメイトに恵まれ、県大会でも上位を目指すほど、頑張っていました。
高校に入り、バスケットボール部に入部し、中学校で努力していたこともあり、主将を任されるようになりましたが、そこで初めてリーダーとしてチームをまとめることの難しさを痛感しました。中学までは、ある程度同じ環境・同じ境遇で育ってきたメンバーと一緒に過ごしていたので、価値観も近かったため、「もっと練習して、優勝するんだ!!」という、同じ高い目標を持って、取り組んでいました。
しかし、高校になると様々な地域から生徒が集まってきます。価値観も様々なため、目標も様々でした。とりあえず、運動不足のために入部した人、ただ楽しそうだから入部した人など、様々な価値観が入り混じった環境下でチームをまとめる必要がありました。それでも、私は、これから自分がチームをまとめあげることのわくわく感、そして自信に満ちあふれていました。

ですが、そのような自信はあっという間に地に落ちます。

これまで当たり前にやっていたこと、当たり前に言っていたことが、通じなかったのです。高校生ながら、「なんで、伝えたことをやってくれないのだろう?」「なんで、もっと練習しないのだろう?」「なんで、練習に遅刻するのだろう?」と悩み続けました。

スラムダンクをご存知の方なら、分かるかと思いますが、まさに湘北高校を率いる赤木キャプテンと同じ境遇にありました(赤木キャプテンは、後に、同じ志を持つ素晴らしいメンバーに出会い、全国大会に出場するに至ります)。

ですが、現実はそんなに甘くはありません、当時の私は未熟だったこともあり、「きっと、そのうちメンバーは私のことを理解してくれるだろう。」と勘違いし、一番やってはいけない行動をとってしまいました。メンバーの価値観を理解しようともせず、自分が正しいと思う価値観を強要し続けていました。その結果、どうなったかと言うと、私はチームで完全に孤立する存在になってしまいました。孤立してから初めて自分のやり方が間違っていると気づき、これ以上「孤立したくない」、「嫌われたくない」という思いから、今度は、まったく物を言わないようになってしまいました。そして、チームプレイは諦め、自分1人でどうにかするしかないと考えるようになり、がむしゃらに練習しました。

朝早く体育館に向かい、1人でシュート練習を行い、部活が終わった後も1人でトレーニングを続け、そんな日々を休まず続けていました。自分さえ頑張ればなんとかなる、努力すれば報われると思って取り組んでいましたが、ついに身体が悲鳴をあげ、高校3年の春に重度の腰痛を起こし、チームを離れることになってしまいました。

私がいなくなったことで、チーム状況はさらに悪化し、最後の大会では初戦で敗退しました。チームのためを思ってやってきたことが、全て逆効果になってしまい、悔やんでも悔やみきれない気持ちでいっぱいになりました。辛い経験でしたが、私にとって非常に大切な教訓を得られました。

お互いの価値観を尊重することができなければ、チームワークは生まれず、同じ目標に向かうこともできない、というものです。

IT業界に就職して

元々、ロジカルに考えることが好きで、答えが明確に出る数学や理科が得意だったこともあり、大学では理工学系の学部に進学しました。そこで、物づくりの楽しさを知り、大学院に進学し、現在で言うところのディープラーニングに関わる機械学習の研究を行いました。そして、富士通株式会社に新卒で入社しました。「最先端の技術を学びたい。」「世の中の役に立つものを作って、お客様に喜んでもらいたい。」そういう思いで、IT業界に飛び込みました。

配属先は、銀行など金融関係の業務システムの中核を担うソフトウェアの開発チームでした。金融関係は主力事業で、特にそのチームは海外展開している数少ないチームの一つでした。チームには、海外でも一目置かれている技術者が集まっており、その中で自分を磨くことができたことは、非常に良い経験だったと感じています。人には、似たような考えを持つ人が集まるように、高いレベルの人が集まる環境に、身を置くことで自分自身のレベル、それは技術的なレベルもそうですが、考え方や仕事観のレベルも引き上がるのを体感しました。

グローバルな環境を乗り越えて

配属先は海外製品を扱う部署でしたが、私は、英語はそれまで勉強したことがほとんどなく、当時は挨拶もろくにできないレベルでした。初めて海外との会議に参加したとき、周りは英語で話している中で、私は何を言っているのかまったく理解できず、一言も発しないまま終わったことを記憶しています。「この状態だと業務もままならない」、「チームのメンバーにも迷惑がかかる」と、必死になって英語の勉強に励みました。最初は、書籍での学習や英会話スクールに通っていましたが、いざ人前で話すとなると全然上手く伝えられず、「このレベルじゃ業務は難しいんじゃない?」と上司から、事実上の戦力外通告を受けてしまいました。

「このままでは、だめだ。」と何かを変える必要性を感じていましたが、

「何を変えればいいのだろうか?」
「テキストが良くないのだろうか?」
「通っている、英会話スクールが良くないのだろうか?」と悩みました。

そうこう悩んでいる時に、自分自身に向けて考えていないことに気が付き、「自分が変わらないといけない。」、「自分で変えないといけない。」と決意しました。

それまでの学習方法では成長のスピードも遅く、体で覚えられていなかったので、より実践的な訓練を増やすことが重要だと感じました。

英語の実践といえば、「留学」が頭に思い浮かぶかと思います。ですが、お金もかかる上に、会社を休むわけにはいかない。そうではなく、自分の住んでいるところに外国人を招いて一緒に住もうと考えました。そして、色々とやり方を調べていたところ、当時はまだやっている人がほとんどいなかったAirbnbと呼ばれる民泊の存在を知り、「これだ!!」と思いました。すぐに、民泊先として登録し、受け入れを開始しました(正式な届出を出した上で運営していました)。初めは、本当に、泊まりにくるのかと不安でしたが、ほどなくして予約が入りました。そこから、私と外国人との共同生活がスタートしました。

会社でも英語、家に帰っても英語、まさに英語漬けの生活でした。ですが、目的を達成するために自分で決めたことだったので、辛さ、逃げ出したい気持ちはまったく感じませんでした。むしろ、日々、成長している自分を感じることができ、楽しさで満ち溢れていました。ときには、文化の違いからトラブルを起こすこともありました。隣の部屋にタトゥーを入れた外国人が夜中にパーティーを繰り広げ、注意する勇気が振り絞れず、頭を抱えたこともありました。また、「好きにくつろいでいいですよ。」と案内すると、自宅に帰ったら冷蔵庫のビールがすべて空っぽになっており、私のベッドで熟睡している外国人もいました。はじめは、色々な面で苦労しましたが、それでも私にとってゲストは、大切な存在で、せっかく日本に泊まりにくるのであれば、楽しんで帰ってもらいたいという精神で、できる限りのおもてなしを心がけました。駅まで迎えに行ったり、地元のレストランを案内したり、時には、観光に連れて行ったりもしました。その結果、ゲストからの高評価が続くことで人気物件に繋がり、Airbnbからホスピタリティに優れたホストに与えられる「スーパーホスト」という称号をいただきました。最終的に、20か国以上、50人以上のゲストを受け入れ、いまでも交流を続けているゲストもいるほどです。ホストとゲストだけの関係で終わらず、踏み込んでコミュニケーションを図ること、期待以上のホスピタリティを提供することが、信頼関係を築く上で大切であるとAirbnbを通して学ぶことができました。

そして、英会話の上達も、実践を繰り返すことで、その成果はすぐにでました。半年後には、会話もスムーズにできるようになり、チームのメンバーとも業務レベルでコミュニケーションをとり、思ったことを伝えられるようになっていました。ですが、伝えられるようになると、次の問題が表面化してきました。それは、価値観の相違による意思疎通の難しさです。文化はもちろん、育った環境、知識レベルも違うため、伝えたことが、正しく実行に移されることがありませんでした。なんとか、チームをまとめ上げて、一つの方向に向かわせないと、商談はおろか、製品のリリースさえも、難しいと感じていました。

価値観が異なるのは当たり前、その価値観を受け入れた上で、どのように伝えるべきかと考えるようになりました。まず、日本人ならではの曖昧な伝え方はやめ、相手の価値観で理解できる言葉で伝えるように努力しました。膨大な説明資料をすべて見直す必要があったので、朝から晩まで資料を書き直しては、レビューを繰り返して、終わりの見えない作業に、体力的に消耗しきっていた時期が続きました。ですが、そういった努力は、必ず相手にも伝わると信じて取り組んでいました。その結果、徐々に意思疎通が取れるようになり、同時に信頼関係も深まっていくのも感じました。そうなると、自然とチームのメンバーが同じ方向へ進んでいくのが感じられるようになります。チームに一体感が生まれ、次々と商談に繋げていきました。その結果、担当製品は海外60カ国以上で導入されるまでに至り、海外事業を推進した製品として、社長賞をいただきました。もちろん、私一人の成果ではありません。ですが、チームのために努力を惜しまず、必死に取り組んだことが、自分自身の成長にも繋がりチームを一つにまとめ上げることに貢献できたのだと思います。そして、これは、高校時代に経験した教訓がなければ、達成できなかったでしょう。

お客様のために働くとは

開発業務は、顧客の要件をヒアリングし、それを一定期間内に作り込んでいきます。
顧客の要件の中には、ときに、期間内にできそうもないものや、本当に必要なものなのか、と疑問を感じるものもあります。ですが、顧客が言うことをやっていれば、とりあえず満足してもらえるのものだと、言われた通りに開発を進めてた時期がありました。

ですが、開発が完了、製品を納品して、いざ運用段階に入ると、期待するような結果が得られないことが多々有りました。

「必要ない機能まで組み込んでいる。」
「品質が基準に達していない。」

などと厳しいお言葉をいただき、開発の進め方、そして姿勢の見直しが急務となりました。

そして、顧客からのフィードバックをいただく中で、顧客第一主義と思い、やっていたことは、実態がまったく伴っていないことがわかってきました。
・提案した時期から、納品の時期まで大分時間が立ってしまっており、もう必要なくなっていた。
・また、納品することが最優先になってしまし、その他の品質・性能が疎かになっていた。

など、「言われたことをただやっていては、顧客に満足してもらえない。」と反省しました。

顧客との要件のすり合わせが十分にとれていないのでは、いつの間にか開発者の一人よがりになっていないか、開発期間中に顧客の要件はどのように変化しているのか、顧客起点とは何かなど、一から考え直しました。

顧客にとっては、市場の変化、また顧客の考えの変化も汲み取らないといけない。そして、顧客の考える一歩先の提案をしないといけない。最終的に顧客が豊かになるだけでなく、その先のエンドユーザも豊かになるような提案内容に変えなければならない。と提案をやり直しました。さらに、開発スタイルも顧客とともに二人三脚で、常に顧客の声を聴き入れながら開発を進める手法に変えました。その結果、コミュニケーションが増え、顧客との信頼関係は強固になったことで、顧客の満足度は大幅に高まりました。 「対応が早くて、助かった。」「品質・性能ともに申し分ない!」と感謝の言葉をいただくことが多くなりました。

また、開発メンバーも、顧客とのコミュニケーションが増えることで、モチベーションアップにも繋がり、まさにWin-Winの関係を作り上げることができました。

浅いコミュニケーションでは、顧客との信頼関係は築くことができない、また信頼関係なくして、顧客の本質的な課題を聞き出すこともできないと、学びました。

転職のきっかけ

IT業界で開発者として働いて約10年。お客様の「満足度」を追求して、より良いものを作り続けました。開発をする中で、お客様に寄り添い深いコミュニケーションをとることで、お客様の気づいていない新しい価値を提供することができる、と感じていました。ものを作ることはその手段にすぎない、と。その一方で、開発者としてでは、顧客との接点が圧倒的に少なすぎると、もどかしさもありました。「より多くの顧客に新しい価値を提供したい。」と思うようになり、そのようなフィールドで働くことを考えるようになりました。

経営戦略研究所との出会い

社会人になって、地域のバスケットボールチームに参加するようになりました。
そこのチームに参加していたのが、代表の岩渕でした。
第一印象は、「ここまでストイックな人は見たことがない。」でした。

バスケットボールに関しても、チームのだれよりも練習に励み、若いメンバーにも負けないエネルギッシュさに尊敬の念を抱きました。
そんな岩渕から歯科業界の現状、その中で経営コンサルタントの使命について熱く語っていただく機会がありました。興味が湧かないはずはありませんでした。

私が考えていた「お客様に寄り添い、深いコミュニケーションをとることで、より多くの顧客に新しい価値を提供したい。」という信念にもマッチしていました。

岩渕から詳しく話を聞く中で、会社の理念はもちろん、クライアントが抱える問題を解決するだけなく、そのクライアントの幸せ、そして関わる人すべて人の幸せを最大限にするために、全力で向き合い、そして喜びを一緒になって共有できる、そのような仕事に魅力を感じました。また、自分の成長のため、そして可能性の幅を広げるためには、異なる業界・業種に飛び出し、多角的な視点を持つことができる絶好の機会だと判断し、経営コンサルタントになることを決意しました。

歯科業界は、IT業界とは違います。ですが、元開発者の私には、歯科医師の方の気持ちがよくわかります。それは、歯科医師と開発者は専門家であり、技術をサービスとして提供しているという面では同じ境遇にあると考えているからです。そんな私だからこそ、先生の悩みや不安に寄り添い、抱える問題を一緒になって解決へと導くことができると自負しています。

IT業界で培った知識・経験と「岩渕メソッド」を最大限に発揮し、医院が目指す姿の実現へ向けて、全力でサポートさせていただきます。