地域一番ディレクター染谷 東希

略歴

鹿児島県の田舎も田舎、山の中で生を受ける。その後、18歳まで大阪で過ごし、大学入学で神奈川へ。大学時代には株式投資クラブを立ち上げ、投資だけでなく、ホリエモンをはじめとする数々の社長インタビューや出版を経験。
大学卒業後は、「ベンチャー企業への投資」と「大手企業へのコンサルティング」を行う企業へ入社。
投資先では、VC業務の他、資本政策や財務、営業支援を実施。コンサルティングにおいては、社内では新規分野の「買収防衛策導入、M&Aコンサルティング」を担当。 今なお残る目のクマと引き換えに、2年目、3年目は2年連続でMVPとなる。その他、自らが携わった投資先が上場、日本初のイスラム金融ファンドの立ち上げに参画。
退職後、専門商社を経て、個人で新事業立ち上げ支援を実施。WEBメディアの立ち上げ~マネタイズ~仕組み化を行い、3ヶ月目に月間3000万PVのメディアを構築。

これまでに培った社長と従業員のパイプ役スキル、新規事業立案スキルを岩渕メソッドと融合させて、歯科医院経営に落とし込むことで、地域一番の歯科医院創出に勤しむ。

・家族構成:愛妻、7歳と3歳の息子
・12月21日生まれ O型

染谷をより知っていただく為に

抑圧された幼少期

小学校3年生までは可もなく不可もなく、とりたてて特徴がある少年ではありませんでした。
学校の友達から放課後の遊びに誘ってもらえるわけでもなく、普段から一人で遊んだり、妹と遊んだりという日々を過ごしていました。

というのも、みんなが持っているゲームであったり玩具、自転車を持っていなかったからだと思います。そして、みんなで少し遠出して駄菓子を買いに行くというのもできませんでした。

父がとても厳しく、「お小遣いなし、自転車は買ってもらえない、もちろんオモチャなんてもってのほか」
という状況でした。そんな抑圧された毎日を過ごしていました。
「コロコロ買って!」と言おうものなら、母が止めに入るくらいの父からの鉄拳制裁でした。(コロコロとは月刊の漫画雑誌です)

このような状況でも、クリスマスには一応サンタクロースは来るのです。が、しかし私だけエジソンや福沢諭吉の伝記が枕元に。妹が開けた箱を見ると、今流行っているであろうオモチャが・・・


そのことに「なんで?」と歯向かおうものなら、またしても父から極真黒帯の鉄拳制裁。当時、全てを受け入れ、自分の欲を押さえつけることしかできませんでした
公園で妹と遊んでいる時に、クラスの友達が自転車でワイワイどこかに行くのを見せつけられた時には、本当に涙を流しました。あれは本当に辛かったです。

小さな頃からこれが続いていたため、家を出たいと思うのは必然だったと思います。しかし、まだ小学4年生、「どうしたらいいんだろう?」と無い頭を使い、必死で考えた結果、中学受験しかないと思いました。
人生で初めて、本気で土下座をしました。母に「塾に行かせてください!」と。理由を聞いた母が涙を流しながら「ごめんな・・・これからはお母さんが守ったるからな」と言っていたのは今でも忘れられません。

人生初の目標


塾に通い始めると、一気に視界が変わったのを鮮明に覚えています。 中学受験では、少しでも父から離れるために、なるべく遠い地の中学校を目指しました。母の故郷・鹿児島のラ・サール合格が自分の人生で初めて目標を持った瞬間でした。難関校に向かって本気で勉強しました。
すると、学校の授業がびっくりするくらい簡単で・・・

しかし、結論から言いますと、ラ・サールは不合格に終わり、その後、灘中の受験に全力を傾けようと思った矢先、阪神大震災が・・・
本当に自分はついていなんだなと思いました。
滑り止めで受けた中学校は受かったものの、志望校ではなく、どうせ家からは出られないという理由で地元の公立中学に通うことになりました。

受験失敗、そして挫折

その後、中学を経て、高校生活をのらりくらりと過ごし、いざ大学受験!
成績は多分学年で上位10位には入っていたと思います。
しかし、現役での受験は全部落ちるという結果に・・・
あまりにも本番に弱いというのでしょうか、自分の暗記に頼った学力の脆さに挫けてしまいました。1年間の浪人生活を余儀なくされました。浪人が決まった当初は、やる気もなく、何から始めていいのかすらわからない状況でした。

この頃には父との会話は全くと言っていい程なかったのですが、予備校代を出してもらうために父、母と3人で話をしました。

父から「この数年、中学受験のときくらいナニクソ!でやってたんか?」と言われたときは、とても衝撃でした。たしかに小学校5、6年生は、夜中の3時~4時くらいまで勉強していました。父の職業は市場関係者だったため、その時間に出勤していました。いつも電気が付いているのを確認していたようです。

たしかに、あの時ほどガムシャラに机に向かっていなかったな、と思い出すことができました。この1年間は勉強のためにバカになると決めた瞬間でした。

その1年間は自分の勉強量を定量的に把握したかったため、ノートからテストに至るまで、全てボールペンで書いていました。インクが切れたボールペンの本数が勉強の証でした。
実家に写真が残っているのですが、1年で320本ほどのボールペン消費でした。1日1本に届かなかったのは今でも少し後悔しています。

大学時代~父との和解~

無事に大学に合格した私は、最初テニスサークルに入りました。実は、妻と知り合ったのはこのサークルです。 しかし、ただ漫然と過ごす大学生活も面白くないなと思い、徐々にテニスサークルとは疎遠になり、有志6人で株式投資クラブを立ち上げました。
株式投資とはただの名目で、「大学生×株式投資」だと会いたい人に会えるという理由からの立ち上げでした。

社長訪問を企画し、当時イケイケのホリエモンさんに会いに行ったり、サンプラザ中野さんと対談したりと相当楽しんでいました。 ホリエモンさんに紹介していただいた投資会社を訪問した際には、その子会社から「出版してみない?」とありがたいお言葉も頂戴し、出版もしました。

この時の投資クラブのメンバーが今でも一番の仲間です。それぞれ違う道に進んでいますが、今でも年に1回、年末に集まって情報共有やらをしている仲です。
ちなみに、この本は全く売れることなく、今では絶版になってしまっております。(笑)
このクラブで得た出版経験は私にとって大きな転換点でした。あの厳しかった父にも異変が起きたのです。ただただ厳しかった父が「自慢の息子」と言ったのです。
父に誘われ、実家で二人お酒を飲んでいたのですが、「まさか自分の家系から本を出す奴が出るとは思わへんかったわ。自慢の息子や」と言ってもらった時に、初めて?大泣きしました。多分、幼少期からずっとこの言葉欲しかったのだと思いました。

いつか本気で殴ってやろうと思っていた「父」という存在が、ここまで育ててくれて、そして大学にまで行かせてくれた感謝する「父」に変わりました。

そして社会人に

大学卒業後、ベンチャーキャピタル兼事業開発コンサルを行う会社に入社しました。この会社での働き方は今でもためになっていると感じています。

まず、当時の社長の口癖は「24時間364日働け」でした。正月1日だけは休んで良しでした。
三つ子の魂百までとはよく言ったもので、歳のせいもあり多少ガタは来ておりますが、今でも結構徹夜してしまう癖があります。入社当初ベンチャーキャピタルでは、微生物を取り扱っている会社をメインで担当しておりました。その中には、いま世間を賑わせている上場会社などもあります。
業種柄からか理系出身の方が多く、特に研究者から代表取締役になった方は、従業員とのコミュニケーションが苦手という傾向がありました。
実際に支援している先では、従業員とのパイプ役として色々噴出する意見を取りまとめて、プロジェクトに活かすということをメインにしていたような気がします。
社長は技術者としての腕は一級、しかし経営(特に財務面)に疎いのです。従業員は社長の考えがわからずに、どのように動いていいのかわからない。そのため、社長には不満が蓄積する。一方で、なんで怒られているのかわからない従業員。 あれ?これって、ある業界にもよく見られませんか?そう歯科業界です。
この経験を、今は歯科医院の組織作りへ活かしていきたいと思っています。

コンサルティングでは、主にクライアント企業内のリソースを使った新規事業コンサルティングを行っていました。忘れもしない2年目の2月。クライアント先の専務から「敵対的買収をかけられたんだけど、染ちゃん、なんとかならない?」と。 当時、新聞でも何度か取り上げられた敵対的買収でした。

一度会社に持ち帰り、当時の上長に確認。「うちには大きすぎない?染谷くんやりたいならやってもいいけど、うちでは対応できそうな人いないよ」と言われました。
このまま何もしなくても買収される可能性もある。だったらやらない理由はないと思い「やってみます!」と即答でした。 初回の打ち合わせに一人で訪問。会議室は弁護士、証券会社など全部で30人くらいのビジネスマンたちがいました。そこに社会人2年目の私がポツンと。正直ビビりました。

そこから、6月の株主総会まで、1日2~3時間くらいの睡眠時間、休みはなし、会社には週4日は泊まっていたと思います。 結果は、無事に買収防衛成功でした。この時にできたクマがその後取れることはありませんでした。

この時の経験がひと皮もふた皮も剥いてくれました。買収防衛策導入コンサル、M&Aコンサルという社内ではこれまで行っていなかったコンサルティングを1人で行っていました。
元々、会計士を目指しており、幸いにも簿記1級を持っていたため、財務諸表を見るのは苦痛ではありませんでした。 既存のクライアントからの事業買収の案件などをこなしていると、2年連続で社内売上はダントツで1位になっていました。

1社目卒業~経営戦略研究所に入る少し前まで

1社目には5年半在籍しましたが、2度の胃潰瘍、1度の十二指腸潰瘍を経験。退職時の社長は入社時と変わっていましたが、初代社長と二人で話していて、「そろそろ外で勝負しみたら?」と言われました。 今もその社長とは連絡を取り合っているのですが、あの時背中を押してくれて良かったと今も感謝を伝えています。

その後、専門商社をはさんで、個人で知人のサービス立ち上げの手伝いを行うに至ります。専門商社の話はこれと言って取り立てることもないので割愛させていただきます。

専門商社退職後、「そめ、フェイスブックみたけど、今フリー?」と連絡がありました。しばらくはロングバケーションにしようと思っていたのですが、「どうしたん?」と聞くと、「オヤジの会社がやばい。借金がやばくて・・・何とかならんかな?」という内容でした。
知人のお父さんは工場を経営されていたのですが、工場をたたもうにも借金が有り、機材なんかを売り払っても二束三文とのこと。最初は自己破産したら?とも考えたのですが、結構なお年になられているだろうし、なんとかしてあげたいと思いました。

実は私の父のお店も連鎖倒産に近い形で閉じていたという経験があるため、こう思ったのかもしれません。
しかし、なんとかしてあげたいけれど、工場の再生は経験したことがありませんでした。
「違う事業の立ち上げなら手伝ってあげる」と回答しました。
それから自分の中で具現化したいことを全て洗い出し、WEBサービスの立ち上げを提案。その後はあれよあれよで、PVは伸びるは、売上は立つは、で3ヶ月目にはPVが3000万PV立ち上げから半年で数千万の借金は返済していたと思います。

その後は、いわゆる仕組み作りをしました。自分が動かずにしっかりと業務が回るシステム作りをこの時に学んだ気がします。

業務は順調、しかし、自分の中の何かが壊れていっている気がしていました。なぜなら、一歩も家からでない生活、買い物に行かないからご飯は出前に、夜は酒を飲みに出かける。こんな生活になっていきました。

少しばかり、そのWEBサービスの説明をしますと、フェイスブックの拡散力を使って、ゴシップなどを配信するメディアでした。ゴシップのような記事を扱うため、心がハッピーになることはありませんでした。誰かを幸せにするわけではありませんし、むしろ誰かの不幸をサービスにしていました。
クレームのメッセージは毎日のように届きますし、サービスの閉鎖も経験しました。

全くもって感謝してもらえる仕事でもなく、社会に貢献するでもなく。 (フェイスブックをご利用されていましたら、上記のロゴを見た方もおられるかもしれません。)

転職を決意

そんな折、大学時代に何度か話したことはあった今の妻と再開を果たしました。私と同じ年齢というのもあり、「付き合う=結婚」は必然だったかもしれません。
その中でやはり頭にもたげるのは「あれ?今の仕事していて、俺は大丈夫なの?」ということ。
自分の中で、このサイト事業が手離れしたら、新天地でハートフルな事業を一生の仕事にしよう、と心に誓いました。

2015年9月、いざ転職へと行動へ。
しかし、どういうことをしたいのか固まっていない私。

過去を振り返る時間はたっぷりとある。ならば振り返ってみようと、自分の強み、弱み、経験してきたこと、ありとあらゆることをKJ法で貼り出していきました。
その中に妻から「これってすごい経験だよね」というのがありました。
それが「母の大病」でした。私が中学3年の時に母は癌を患いました。厳しい父と妹2人、弟1人と私の5人が同じ屋根の下にいるのですが、まさに家族離散状態でした。

誰か一人がいなくなるだけで、家庭から笑顔、会話がなくなる。これを経験していた私は、「医療、ヘルスケア」「笑顔」というキーワードで会社を探し始めようとしました。

まさにそのタイミングでWANTEDLYに登録したのです。すぐに経営戦略研究所に行き着きました。運命だと思いました。 そのまま、採用サイトから応募しました。この運命、直感に嘘はないと感じたからです。
その数日後には、第一次面接を受けていました。忘れもしない入籍の前日でした。(笑)
そして、第二次面接を経て、第一次面接から28日後には経営戦略研究所のメンバーとしてデスクに座っていました。実はこの時に中学受験の経験が役立ちました。
過去最短で入社したかもしれません。(笑)

入社初日は全体会議が行われる日で、普段はコンサルティングでオフィスにいないメンバーとも顔合わせ出来ました。
その時に、岩渕の仕事観、仕事に対する姿勢、会社のメンバーの仕事に対する姿勢が輝いて見えました。 なんせ、この一年半近くはチームという概念なく、自宅でひたすら作業し、何かあるときはSkypeで会話という生活だったのですから。
今、経営戦略研究所のメンバーは本当に宝物です。そして、私たちを信頼して下さり、ともに医院経営を良くしていきたい!と思っている院長先生たちは本当に仕事を共にする家族だと思っています。

「私と関わった人は絶対に笑顔にする」という信念のもと、自分の成長とともに、関わった全ての人に貢献をしていきたいと思っています。そして、経営戦略研究所にはそれが備わっています。
私とともに、経営戦略研究所という乗り物に乗って、人生を笑顔であふれさせて行きましょう!!