地域一番ディレクター山本 峻士

略歴

栃木県生まれ、東京都板橋区育ち。高校時代に陸上競技のやり投げに出会い、インターハイ、国体に出場。その後スポーツ推薦で日本大学に入学。大学では、関東学生選手権で6位入賞を果たす。

大学を卒業後、大手製薬会社であるヤンセン・ファーマ株式会社に入社。入社2年目には、前年対比(前年からの売上進捗率)全社員1300人中TOP3に入る。4年目には新薬である抗認知症薬を発売半年で売上高全国2位を達成。その当時、会社推薦により20代前半では異例の大学担当者となる。その後ヘッドハンティングにより、プルデンシャル生命保険株式会社に転職。初年度においては、社長賞に表彰されハワイにて、表彰式に招待される。TOP7%のみが表彰される「1週間に3件以上のご契約を頂く」という基準を1年間に40週達成。その他数々の表彰を受ける。
前職の人脈を生かし、医療従事者がご契約者の7割を占め、わずか2年半で124名の方のご契約を頂き、多くのお客様から絶大なる信頼を得る。 これまでセールスという仕事を通して、目標達成に対する考え方・実践スキルを習得してきたが、今の自分自身では医療従事者の真の悩み、苦しみ、辛さを解決できないことにもどかしさを感じ始めた時に、経営戦略研究所と出会う。
代表である岩渕の「コンサルタントとして、クライアントの成果を上げるのは当たり前。それだけでなく、その医院に勤める院長やスタッフ、またその家族全員が幸せになる、豊かになる医院づくりをしていく」という考え方に共感し、転職に至る。

家族構成:妻、長男7歳、次男3歳、2歳の三男、1歳の長女
趣味:グルメ、キャンプ

山本峻士をより知って頂くために

幼少期

「晩御飯予算は1000円」

生まれは栃木県那須烏山市という大自然あふれる町に生まれました。幼稚園を卒園すると同時に、父が突然の独立、そして両親は離婚。母方の実家である、東京都板橋区に引っ越すことになりました。もちろん6歳の私には離婚などという意味がわかるわけもありません。当時父は大変に厳しく、たまに帰ってくるといつも母を怒鳴り散らしておりました。ですので、「お父さんは忙しくなるから、別々に暮らすのかー、むしろ怖いお父さんがいなくなってうれしいな!」と思うほどでした。

しかし、独立した父は経営がうまくいかなかったようで、養育費も払えなくなり、母は朝から晩まで、いくつかの仕事を掛け持ちしながら働くことに。学校から帰ってくると、いつも台所の机の上に「1000円札」が置かれていました。大きくなるにつれ「周りのみんなは家族がいつも家にいるのに、なんでうちにはいないんだ?こんな家に生まれてこない方がよかった。」そんな気持ちが大きくなっていきました。次第に私は家族という存在自体が嫌になり、寂しさと孤独感を感じながら1000円札を毎晩握りしめていました。
そんな生活が続き、高校生になった私には、生意気にも人生をこう思うようになっていました。

「人生というものは、どんなに苦しくても悲しくても誰かが簡単に手助けしてくれるわけじゃない。だったら一人で生きていける力を自分自身で、身につけなくちゃいけないんだ!」と・・・。
本当は家族に甘えたい。でもそんな恥ずかしいことを言い出せるわけもなく、そんな覚悟を決めたのを今でも覚えています。

やり投げとの出会い

そんな孤独な気持ちを抱えてはおりましたが、小さいころから運動が好きで、今までにサッカー・水泳・卓球・野球などいろいろなスポーツを経験してきました。高校からは陸上競技部のやり投げという競技をするようになりました。理由はただ一つ…肩が強いという強みを持っていたからです。

そのおかげで、練習を積み重ねていくと面白いように結果が出ていきました。高校2年生になると関東大会入賞(7位)、そして高校3年になるとインターハイ・国体出場と順当に目標を達成していきました。もちろん、練習が辛い、やめたいこともありました。ですが、
「努力をすれば必ず思うような成果が出るわけではない。しかし努力をしなければ成果が出ることは絶対にない」

という考えを若いうちに身につけることができました。その後陸上競技部の名門である日本大学から「一流のコーチがいるうちなら君は活躍できると思うよ」と声がかかったのです。

「最高の環境で練習できるなんて…夢みたいだ!」 そんな夢と希望を抱いていた私でしたが、この後本当につらい出来事が多く待っているのでした…

地獄のような大学生活

日本大学陸上競技部には東京都世田谷区に寮があり、スポーツ推薦で入学した学生は強制的に入寮する決まりとなっていました。そこでの生活は、平成の時代とは思えない厳しい環境でした。
正直私の人生で寮に入った初めの1年間が最も苦しかったです。いわゆる「理不尽」が平気で罷り通るような環境でした。どれくらい厳しいかというと、

・毎朝5時から掃除、6時から朝練(寝坊するとおなかに砲丸を落とされる)
・門限は22時(それ以降の外出は一切禁止・消灯・テレビも禁止)
・部屋は3人1部屋(約10畳・全員先輩)
・指導という1週間に1回先輩からのお叱りを受ける(約2時間)
・週1回炊事当番で寮生全員分の朝・夜ご飯を作る
・練習は先輩が全員帰るまでは帰ってはいけない

ざっと書き出してもこれだけあります。ちなみに、一番ひどかった経験があります。
同じ部屋の先輩に夜中1時ごろに、

「山本!起きろよ!おい!あのさ、渋谷のコーラ買ってきてくんない?あっ、ちゃんとレシートもらってこいよ」 と笑いながら言われたことでした。こんな無茶な要求も断ることが出来ませんでした。さすがの私もこのときは、本気で号泣しました。もちろん今となっては笑い話です!

こんな環境なので、同級生には入寮して数か月で退部して行く人もいました。でも私には「退部」という選択肢は頭の中にはありませんでした。むしろそんな劣悪?な環境で生活していたことが次第に自信になってきましたし、社会人になって、この経験に感謝できるようになりました。

例えば、社内や営業先で理不尽な事を言われたり、きつい・しんどいと思ったとしても、「あの大学時代に比べたら、今なんて全然比べ物にならないくらい楽だよな!」と思えるほどのタフさが身についていたのです。「若い時の苦労は買ってもせよ」という言葉の意味は、まさにこのような経験から言えることです。

生活面では辛いことも多かったですが、そこはトップアスリートが揃う環境。やり投げの成績もグングン伸びていきました。なぜ成績が伸びたのかというと「目標から逆算して日々の行動計画を立てる」ことを意識していたからです。私は「大学4年の6月に行われる全日本学生選手権で優勝する」という明確な目標から逆算して計画を立て、そこから、年間・月間・週間そして日々の目標とやることを明確にしていました。その結果、すでに私は大学2年の頃には「関東学生選手権6位入賞」を果たしました。

残念ながら、大学3年生のころに肩を壊し、競技は引退してしまいましたが、今度は社会というフィールドで活躍したい!そんな気持ちでワクワクしながら大学を卒業していきました。

セールスとの出会い

大学時代に多くの経験が出来た私は、大きな自信と少しの不安を抱えて、ヤンセン・ファーマ株式会社という会社に就職しました。そこではMRと言われる営業部門に配属され、私は「営業成績で絶対トップを取る!」と熱い気持ちをもって入社しました。

MRは、担当エリアの病院・クリニック・薬局などに定期的にお伺いし、医師・薬剤師・看護師などの医療従事者に医薬品の情報提供をする、というものが主な仕事です。お恥ずかしながら、今までスポーツばかりで勉強は二の次…でしたので、他の同期の何倍も勉強に時間を当てました。とにかく同期・他社のMRには負けたくないという気持ちが強かったのです。
しかし…スポーツで活躍していたからといって、社会はそんなに甘くはありません。

新入社員と聞いただけで、担当の病院の先生方がまったく相手にしてくれないのです。口も聞いてくれませんでした。とうとう本社にクレームが入る始末… Dr.「なんであんな若造がうちの病院の担当なんだ!?うちの病院とはもう関係を見切ったってことか!?」 こんな言葉を聞いて私は本当に悔しかったです。

どうしたらいいかわからず、もうこのままその病院に訪問するのをやめちゃおうかとも思いました。でもそんな程度で諦めるのは悔しかったので、私はあることを思いついたのです。
「営業成績を上げたかったら、営業成績がいい先輩にアドバイスをもらえばいいんだ!」
そう思ったら即実行、全国の売上順位が1位の人から順番に、片っ端から電話をしました。

先輩方は突然の電話に驚いていましたが、それでも快く承諾してくれ、様々な事を教えてくれました。共通していたのは、「いかに聞く耳を持ってもらえるか、こいつだったらチャンスを与えてもいいか、と思われるかだ。そのためには、他社MRとこいつは違うな、という差別化を明確にすることだよ」ということでした。

私はそのとき頂いた具体的行動のアドバイスを1つ1つ素直に、愚直に実践していきました。 他社のMRが絶対にやらないことは何か?ということを考え、時には23時近くまで、病院の医師専用の駐車場で待ってみたり、お子さんが受験生だと聞いたら太宰府天満宮まで週末に行って、お守りを買ってきたり…そんな地道な活動をしていくと、はじめは見向きもしなかった先生方が少しずつ耳を傾けてくれるようになり、とうとうチャンスがやってきました! 「今度昼の時間に、医師を集めて、薬のプレゼンしてもいいぞ」
と本社にクレームを入れた先生から、そんな言葉を言われたときは、「やっと認めてくれた!」と、仕事で初めての達成感を感じることが出来ました。

私はこの経験をしたことによって、セールスで成功するためには何よりも「素直さ」が大切であると感じました。自分から教えてくださいと素直にお願いする、そして教えてもらったことを素直に行動にうつす。成功に余計なプライドはいらないのです。プライドというものは、うちに秘めていればいいのであって、表に出すものではない。そういうことを学ぶことが出来ました。

そのおかげで、入社2年目には前年度売上進捗率で全営業1300人中3位、そして入社4年目には抗認知症薬発売半年で売上全国2位という結果を出すことが出来ました。
仕事に対しては、充実感を持っていましたし、特に不満もありませんでした。
そんな時、私の元へ、運命の電話が鳴るのです…

厳しいプロフェッショナルの世界

その電話はプルデンシャル生命保険からのヘッドハンティングの電話でした。その時は、生命保険のセールスにいいイメージを抱いていなかったので、まったく転職する気もありませんでしたが、そこは素直さが売りの山本です!
「優秀な営業マンのみしか会っていません」
という言葉を素直に受け止め、一回会ってみませんか?という誘いを承諾しました。

「生命保険が変わる。ライフプランナーが変えるという気持ちを全員が持っています。私たちはプロのセールスマンですので、フルコミッションという完全歩合制なのです。プロ野球選手も固定給だったならば、あそこまで高い成果は出ませんよね?だから私たちは皆、他のセールスマンに比べてスキル・スタンス・スタイルすべてにおいて能力が高いのです。ただし、そこは厳しいプロの世界です。全員が成功できるわけではありません。ですが、一つだけ約束されているものがあります。それは成長です」
こう話しているセールスマネージャーの顔は、真剣そのものでした。

「この人は、本気で生命保険業界を変えようとしている。今の職場にそれほどの使命感を持っている人はいるだろうか?たしかに成果は上げているが、今のままの俺で満足していいのだろうか?もっと厳しい世界に行けば、もっと俺は成長できるんじゃないだろうか?」と、次第に私はチャレンジしたいという気持ちが高まっていき、転職を決意しました。 あまりに突然の選択に、上司は大激怒。
上司:「ふざけんな!!自分の事だけ考えやがって!どれだけ迷惑かかると思ってんだ!!金稼ぎたいだけだろ!?お前みたいな奴は絶対失敗するぞ?あとから後悔するからな!」
と、マクドナルドでトレーをぶん投げられました。
もちろんそんな事を言われたのは傷つきましたが、むしろ私は転職の意思が固まりました。

私が皆に「人に迷惑をかけることは百も承知で、それでも新しいことにチャレンジしたいんだ」と言ったところ、社内の人たちは誰一人として「がんばれよ!絶対成功できるよ!」と声をかけてくれませんでした。私は、誰かにチャレンジしたいという相談や報告を受けたら、どんな形であれ「頑張れよ!!絶対できるよ!!」と言える人になりたい。なりたいなら、自分がチャレンジして、結果を出してみせる!そう心に決め、辞表を提出しました。

そしていざプルデンシャル生命に入社。いざ現場に出ると、たしかにつらいことの連続でした。
毎週100件以上のテルアポ、そして商談。
断られるのが当たり前の世界ですが、落ち込む暇もないほどにアポイントを入れ続けました。
友達から着信拒否されたこともしばしば。何度も悔し涙を流しました。

そんなときに、ある先輩ライフプランナーから教えられた言葉がありました。それは「凡事徹底」という言葉です。 「お客様は、保険の加入に対して、そしてセールスマンに対しても不安を抱いているんだ。いくらスキルが高くても、話が巧みでも、その不安を解消してあげられることはない。お客様に心から信頼してもらい、『この人だったら任せたい!』と思われなくてはならない。その為には『凡事徹底』を意識するんだ。商談の時だけしっかりすればよい、お客様がいる時だけきちんとすればよいというころではない。日ごろどんな状況であっても、誰も見ていない時でも、常に見られているという意識を持って行動すること。そして細部にまでこだわって準備すること。これが信頼に繋がる第一歩だ」 この言葉は今でも私自身、常に意識している言葉です。
また、私が辛くても続けられた理由は、このようにアドバイスをしてくれる「仲間」がいたからです。
社内は、全員が熱い情熱をもって、仕事に取り組んでいました。フルコミッションという厳しい制度なので、誰も愚痴や不満を言っていません。
断られて、凹んで、それでもみんなで励ましあって、またテルアポして…ミーティングでは40代の先輩が平気で悔し涙を流すような会社です。普通の会社で考えられませんよね?
気付けば私も本気で生命保険業界を変える!!そう心から思える一員になれていたのです。

私は今までの人生、思い返すと1人で頑張ろう、誰にも頼ってはいけない、頼ることは甘えだと思っていました。 小さいころも、家族に甘えられる環境ではありませんでした。陸上競技は個人競技なので、1人で頑張るしかありません。MRという仕事をしていた時も、1人で成果を出して、みんなにいい背中を見せることが役目だと思っていました。
もちろん、その考えの根本は変わっていません。でも1人では頑張れないことも、仲間に「できるよ!!絶対できる!一緒に成功しよう!!!」とお互い言い合った方が乗り越えられることもあるんだ、ということを学ぶことが出来ました。まさに「勝って和を成す」という精神こそが、組織の成功には必要不可欠であることを経験できました。

経営戦略研究所との出会い

熱い気持ちを持った仲間と、多くのお客様の応援のおかげで、私はハワイでの表彰式で賞を頂けるまでになっていきました。 特にMRという経験を活かして、医療従事者のお客様が多く契約者の7割を占めておりました。その商談の中で、「経営者としての悩み」「人間関係の悩み」「将来の不安」など、その人が抱える悩みを聞くことが多くなっていきました。「なにか力になりたいな。けど、今の自分では話を聞くくらいで、その人の本質的な悩みを解決するのは難しい」と次第に思うようになっていきました。
そんな折、代表の岩渕の話を聞く機会がありました。

「コンサルタントとして、クライアントの成果を上げるのは当たり前なんです。むしろ、それだけでなく、その医院に勤める院長やスタッフ、またその家族全員が幸せになる、豊かになる医院づくりをしていくのが我々経営戦略のミッションです」

と、堂々と自信を持って話す姿に一発で心を射抜かれました。
生命保険という金融商品を通して貢献するだけでなく、自分自身が本質的な問題に介在して、自分自身としての価値を提供できるコンサルタントという仕事に興味を持ちました。

「岩渕さんの考えをもっと知りたい。本当にクライアント全員が幸せになるような、そんな仕組みづくりができるのならば、ぼくも一緒に歯科業界を変えていくお手伝いをしていきたい!」
そう思うようになり、入社を決意したのです。

私は今までの人生、自分を信じて数々のチャレンジをしてきました。そしてその結果、多くの学びを手にすることができました。

・大学時代に培ったタフさと目標達成に対する考え方
・MR時代に培った勝つための圧倒的な実践の量とそれによる差別化
・ライフプランナー時代に培った信頼を得るための考え方とチームスピリット

私の経験を活かしつつ、クライアント1人1人が幸せになるように、全力で取り組んでいきます! 必ず皆様を、豊かな人生へと導いてまいります!