地域一番ディレクター山下 淳平

略歴

大阪府出身。大学を卒業後、アパレルメーカーに入社。入社後、1年6ヶ月で当時最年少となる店舗運営・責任者に抜擢。新マーケット・新店舗となるレディースブランドを担当し、販売戦略立案、レイアウトデザイン、スタッフ教育・育成等、マーケティングとマネジメントの両面で多くの経験を積む。その後、「自分を変えたい」「自分を更に成長させたい」との想いで選んだ第二のキャリアは『リクルート』でした。

リクルートではクライアントのキャリア採用における人事コンサルティング業務を担当。主に東証一部上場の国内大手メーカーや世界トップの消費財メーカー、スーパーゼネコン等をメインクライアントとして、年間約200件以上のプロジェクトを推進。在籍時は、MVP・準MVP・新人賞・イノベーション賞等、部内にある全ての賞を受賞

1年目では四半期目標を僅か1ヶ月で達成する偉業を成し遂げる。2年目からはプレイヤー兼リーダーとして、メンバー育成・マネジメントを担当する。と同時に、2年目でも四半期目標を1ヶ月で達成。3年目からは日本を代表する総合電機メーカーを担当。そして、4年目の最終業績は目標1500万円に対し、2500万円。達成率166.6%を成し遂げ、リクルートでの有終の美を飾る

そして、「クライアントの人生に寄り添う仕事をしたい」「もっと深くクライアントと関わりを持ちたい」との想いで、経営戦略研究所に入社。2社のキャリアで培ってきた仮説構築能力、教育・マネジメント力、そして、圧倒的な当事者意識と行動力で地域一番医院創出を実現

山下淳平をより知って頂くために

幼少期

3人兄弟の次男(兄・妹)として生まれ、性格を一言で言えば「THE男の子」
仮面ライダー、ウルトラマン大好き。特に虫取りが大好きで、毎日虫かごと虫取り網を片手に、生きているモノは全て持ち帰る。それは毛虫であれセミであれ、全て持ち帰り、そしてお世話をしない。いつも母親を困らせてばかりの日々を過ごしていました。

そんな幼少期、私が没頭したものがもうひとつ。それがサッカーでした。Jリーグが開幕し、ブラウン管を通してキラキラ輝く選手の姿に釘付け。特に三浦知良選手は、圧倒的なカリスマ性と実力を兼ね備え、当時の私に鮮明かつ強烈なイメージを植え付け、「僕も三浦選手みたいに、みんなに感動と元気を与えられるサッカー選手になりたい!」それが幼少期の私の夢でした。

地元のクラブチームに入団し、本格的にサッカー人生がスタート。
しかし、周りの同級生とは大きく環境が異なっていました。それは、クラブチームの監督が私の父親であったということ。家では「父親」、外では「監督」。最初は気にもならず、毎日夜遅くまで楽しみながらサッカー漬けの毎日。しかし、そんな日々が徐々に変わり始めます。

「純粋にサッカーを楽しむ」から、「ピッチの外で見ている父親であり、監督の期待に応えなければならない」へと意識が変化。更には「監督の息子だから、レギュラーに選ばれている」と周囲に思われているのではないか。「自分は実力も無いのに、父親が監督だから、試合に出ているのだ」と勝手に思い込むようになりました。その影響は「家」にまで及ぶようになり、父親と何を話せばいいのか、どのように接すれば良いのか分からなくなってしまいました。

この変化が及ぼした自分への影響は中学校・高校まで続きました。高校1年でレギュラーに選ばれはしましたが、試合に出た時は「自分の実力を信じることができない」「周囲の期待に応えなくてはいけない」という過度のプレッシャーを感じ、思うようなプレーができない、サッカーを楽しむことができないという日々が続きました。結果、レギュラー落ち。更に複雑骨折を2回経験し、高校3年間の半分以上をリハビリに費やすことになりました。そして、高校サッカー最後の試合、私はピッチの外から試合を眺めていました。結果は準々決勝で敗退。周囲の部員は悔し涙を流しているのにも関わらず、自分の目から涙が溢れることはなく、私のサッカー人生はそこでピリオドを打ちました

アパレルメーカーに入社

大学時代に「ファッション」に興味を持ち、卒業後アパレルメーカーに入社。入社1年目はオリジナルブランドの店舗スタッフとして働き、入社1年6ヶ月で当時最年少となる新店舗の店舗運営・責任者に抜擢

周囲からの大きな期待と順調にキャリアを積み重ねる現実とは裏腹に、自分の周りで起きている現実を「自分ごと」として捉えられずにいました。なぜなら、そこに自分自身の明確な「Will(意思)」が無かったからです。ただ何となく、ファッションが好きで選んだ道。「何かを成し遂げなければならない」「アパレル業界で成功する」そんな明確な意思は自分の中にはありませんでした。

周囲の期待と自分自身の気持ちとのギャップに思い悩まされるなか、入社3年目に東京への異動の話がまいこみました。それは、当時最大の売上を誇る東京駅の店舗責任者として、業績拡大を図るというミッション。本来であれば、手を叩いて喜ぶ話ではありましたが、自分自身が最初に抱いた感情は「本当にこのまま、自分の意思とは関係なく、用意された道をただ歩き続けていいのだろうか?」というものでした。

それでも「自分は何をすればいいのか?」「何を目指せばいいのか?」分からず、ある時、そんな想いを友人にぶつけました。その時にある会社を紹介されることに。それが第二のキャリアとなる「リクルート」との出会いでした

リクルートへの入社

リクルートと言えば、人材業界No1。そして、リクルートグループ全体が展開するビジネスは多岐に亘り、グループ企業数350社、グループ従業員4万5000人以上、そして売上は1兆8000万円という巨大企業。そして、多くの起業家・経営者を輩出する企業としても有名な日本を代表する会社。そんな環境で第二のキャリアがスタート。

「絶対に自分のWill(意思)を見つける」「誰にも負けたくない」
そんな勢いに満ちた気持ちは入社直後に粉砕されることに。仕事のスピード感、仕事に対するモチベーション。そして、圧倒的なビジネススキルに、「本当に自分は通用するのか」「選ぶ道を間違えたのではないか」そんな気持ちに苛まれることに
それでも「何のために退職したのか」「何のためにリクルートに入社したのか」「自分のWillを見つけるために入社したのではないか」そんな自問自答を日々繰り返し、まず悩むのではなく、自分にできることをやりきる。

私が実践したことは誰よりも多くの時間を仕事に費やすこと
つまり、「圧倒的な量から質を産み出す」ことでした。

朝5時半に起床。ビルが開く朝7時に出社し、とことん仕事に向き合う。平日だけではなく、土日は図書館に行き、自分に足りないビジネススキルや業界情報を習得するために、開館から閉館まで勉強に充てる。そんな生活を続けました。その後、自分を大きく変えるビッグプロジェクトと出会うことに

当時最大のビッグプロジェクトの担当に

入社から1年後、大きな試練が振り注ぐことになります。
それは、当時リクルートが最も力を入れていた「クライアントの年間の採用業務を全て代行する」というプロジェクトに抜擢されます。私のプロジェクトの前任者である先輩は、リクルートの中でもいわゆる「デキル人間」でした。その先輩から呼び出され、「異動が決まった。このプロジェクトは全て山下にお願いしたい」というものでした。最初聞かされた時は、困惑もしながら、承諾。しかし、会社におけるプロジェクトの位置付け・重大さを、その時は知る由もありませんでした。そして、担当としてプロジェクトを推進して間もなく、その意味を知ることに。

それは、クライアントが東証一部上場のとある業界トップ企業であること。そして、年間のキャリア採用人数は150名以上。取引額は数千万に及ぶという事実。これまで経験したことのない大きなプレッシャーと重責がのしかかることに。 その重責は私だけでなく、プロジェクトに携わる全メンバーが感じていました。そして、その感情の矛先が一斉に私に向かうことに。
「本当に入社1年そこらの人間がこのプロジェクトを担当して大丈夫なのか?」
「別の担当をアサインするべきではないのか?」

そして、クライアントからも私を不安視する声が、
「前任者である〇〇さんに担当して欲しい」
「入社1年の人間に任せて大丈夫なのか?」

そんな声を耳にし、私は逃げ出したくなりました。
そして、前任である先輩に自分の気持ちをぶつけることに

「自分には時期尚早」
「入社1年の人間が担当できるプロジェクトではない」
「社内も〇〇さんに期待していますし、戻した方がいいのでは?」
「クライアントも〇〇さんに担当してほしそうです」

と話す自分に、先輩から「異動の事実は変わらない」

そして、この後忘れられない言葉をいただくことに。
それは、

「お前はどうしたいの?」
「俺と違って、お前にしかできない仕事があるんじゃないの?」
「逃げるのではなく、まず行動してみろ。そして、自分のやりたいことをとことんやってみろ」

その言葉を聞いたとき、
幼少期、「自分の気持ちではなく、父親の顔色ばかりを伺い、行動していたこと」
社会人になりアパレルメーカーに入社しても、「周囲の期待にただ応えるためだけに、行動していたこと」を思い出しました。
これでは、結局同じ繰り返しではないか?
周りのことばかりを意識して、そこに自分の意思はない。
そんな自分を変えたくてリクルートに入社したのではないか。
そんな自問自答を繰り返しました。

そして、自分が出した答えは、

「今目の前にある現実にとことん向き合おう」

でした。

それから「自分自身は何をしたいのか?」
「クライアントに自分ができる最大限の力を発揮して返せることは何か」
「周りは関係ない。自分がやりたいことを全力でやりぬく」

徐々に仕事に対するあり方・行動が変わり始めます。

まず、私がしたこと。それは、現場の声・課題・要望を誰よりも知りつくすことでした。
「クライアントの声を理解せず、プロジェクトを推進したところで、本当の満足を得られることはない」私の取った行動は、週に3回クライアントを訪問することでした。これは当時の社内では異例の行動でした。
なぜなら、何百社も担当する中で、1社に対して週に3回の時間を割くことは業績形成の観点で、ほぼ無謀な取り組みであったからです。そして、周りからも不安・心配の声があがり始めます。

それでも私には一切の迷いはありませんでした。

環境と他人はどんなに頑張っても変えられない。 だったら、とことん自分が変わり、行動をし続けることで、周囲の評価も環境も変えてみせる!

全ての時間をこのプロジェクトに捧げ、ただがむしゃらに向き合い続けました。
そうすると今まで自分に対する否定的な態度・評価だったのが、徐々に変わり始めます

社内から「この課題に対してはどのように取り組むべきなのか?」
クライアントから「山下さんはこの件について、どう思う?」「どうすれば、上手くいくかな?」という相談が舞い込むようになります。

それからの関係性は180度変わり、お互いをプロジェクト成功に導くためのパートナーとして捉えるように。そして、年間を通じて、これまでには無かった新たな採用手法を取り入れるなど、様々な取り組みを行いました。

クライアントと二人三脚で歩んできた年間の採用プロジェクト……

結果は達成率93%。未達に終わりました。

どんなに頑張っても、「結果を出す」ということが、如何に難しいかを痛烈に実感

しかし、悔しさの一方で、晴れやかさも感じていました
「限界まで追い込むことで感じられる自身の成長実感」
「クライアントにとことん向き合うことの楽しさ」
「自分が変われば、周囲も変わるということ」

そんな、多くの学びを得られた素晴らしいプロジェクトでした。

そして、このプロジェクトにはまだ続きがあります。

それは、翌年度も年間契約を結ぶことになるのです

実は、初年度はかなり高い目標数値を設定していたため、社内では十分に合格ラインに達していたこと。そして、クライアントから「翌年度も一年間同じプロジェクトを同じメンバーで実施したい」との要請があったのです。

そして、このプロジェクトをきっかけに、業績だけにとらわれるのではなく、目の前のクライアントの期待に応えるにはどうすればいいか。採用を通して、クライアントの事業成長をいかに実現していくべきかという大局的な視点を身につけることができました。採用充足はゴールではない、クライアントの事業成長を実現するパートナーで在り続ける。それが私の信念となりました。

そして、2年目からプレイヤーだけでなく、組織のリーダーとして、若手メンバーの教育・育成もミッションとして持つことに。
メンバーに伝えた想いはただ一つ
「自分の信念を持って行動をし続け、クライアントの期待に寄り添い続けること。そうすれば自分の想いは実現する」ということです。

経営戦略研究所との出会い

リクルートに入社し3年半を過ぎた時、人生を変える大きなきっかけと巡り会います。それは、弊社のディレクターである萩原からのメッセージでした。
当時リクルートでの仕事に対して、不満もなく、このままいけばリクルートの中でキャリアを積み重ねていく。そんな風に思っていました。しかし、萩原からのメッセージは、自分の心を揺さぶるものでした

「売上目標なし」
「業績に向き合うのではなく、クライアントにとことん向き合う」
「社内で売上の話をするのではなく、クライアントがどうすれば成長するのかを徹底的に話し合う」

そんな企業があるのか?もしあるのであれば、1度話を聞いてみたい。

それが経営戦略研究所との初めての出会いでした。

しかし、私は大阪に住んでおり、本社は横浜。なかなか、話をするのが難しいのではと、懸念していましたが、萩原はすぐさま大阪まで会いにきてくれました。
そして、歯科医院コンサルタントは「クライアントの人生に寄り添う仕事である」と熱く語る萩原の姿を見て、思ったこと。

「自分もチャレンジしてみたい」

しかし、親しい友人や家族は関西におり、自分の置かれた環境を考えるとチャンレジしてみたいという気持ちはあったものの最終的には「大阪に残る」という選択をしました。
そのことを萩原に告げた時、萩原から
「もう一度お会いして、会社の魅力・やりがいを伝えさせてください」
という言葉が返ってきました。
面接を受けた後ならまだしも、面接をまだ受けていない人間に対して、ここまでの行動を取れるのか。
その時、経営戦略研究所の「採用にかける想い」「人材を大切にする想い」を強烈に感じたことを今でも鮮明に覚えています。

そして、面接を受けるまでに萩原とは3回大阪で面談。

その後、面接を受け、無事に経営戦略研究所に入社することになりました。

代表、岩渕との出会い

入社後、私の席は岩渕の隣。
多くの方々がイメージされているかもしれませんが、岩渕は仕事に対して熱く、妥協を許さない。まさにその通りです。自分のすべきことを最大限までやりきる。限界までやりきる。このことを常に求められます。と同時に人間味溢れ、物凄く思いやりと優しさを持つ方。一緒に横浜に来た妻の近況をいつも気にかけ、「体調は大丈夫?」「横浜には慣れた?」と常に心配をしてくれます。

そして、リクルート時代に届いたメッセージの内容。

「売上目標なし」
「業績に向き合うのではなく、クライアントにとことん向き合う」
「社内で業績の話をするのではなく、クライアントがどうすれば成長するのかを徹底的に話し合う」

入社前と入社後、思っていたイメージと異なるということは多々あることだと思いますが、
経営戦略研究所はメッセージ通りの環境でした

これまで売上目標の話を聞いたこともなければ、話をされたこともない。
どうすればクライアントの歯科医院が成功に近づくのか。この話を岩渕、そしてコンサルタントメンバーで徹底的に話し合います

まさに自分が理想としていた環境がありました。

自分自身が信念を持ち、「クライアントに深く寄り添う仕事をしたい」と強く想い続けたからこそ、
経営戦略研究所と引き合わせてくれたのではないか
。今ではそう思っています。

自分を成長させる上では、この上ない最高の機会と環境。岩渕やコンサルタントのメンバーから仕事に対するあり方だけではなく、人としてのあり方、家族への向き合い方を学びました。そして、これからも学び続けていきたいと思います。

これまでの人生を振り返り、人の顔色ばかりを伺って生きてきたこと。
周りの期待ばかりに目を向け、自分の意思がなかったこと。

しかし、横浜に来たことは紛れもなく「自分の意思」「自分の選んだ道」です。

多くの歯科医院を地域一番にしてきた岩渕メソッドと私がこれまで培ってきた知識・ノウハウを融合し、
「多くの歯科医院の地域一番を実現する」
「歯科医院に関わる全ての方々の人生をより良いものにする」

そして、「自分の周りにいる大切な人たちの幸せを実現する」

それを経営戦略研究所というステージを使って、叶えていきたいと思います。