地域一番ディレクター 前田 雄太郎

略歴

福井県出身。東京の足立区育ち。
大学を卒業後、健康食品メーカーに入社。入社後3年後に、取締役に就任。百貨店の健康食品売り場の運営のすべてを任され、採用、スタッフ教育・育成、販売促進など、多くの経験を積む。マニュアルづくりなどの仕組み化に成功し、3年間で店舗数を倍増させる。
その後、「営業力」を磨くために、製薬メーカーの営業として勤務。社員数1000名以上の成績上位20名が受賞する優秀社員賞を受賞。その後、「人を育てる、教育の仕事がしたい」という想いから、研修部門へ異動。そこで、再び優秀社員賞を受賞し、海外研修に参加。多くの人と関わりその成長に触れ、研修を自身の天職と感じていた中、医療経営の勉強を通し、経営戦略研究所と出会う。ホームページのインタビューや面接での岩渕や萩原の話を聞く中で「この会社で多くの人の幸せに貢献したい」と強く感じる。経営者の経験、営業の経験、研修の経験と、様々な経験をしたからこそ、長期的・大局的な視点から提案することができる。これまでの経験を活かし、全員が日々成長し、イキイキ働ける医院づくりに挑む。

前田 雄太郎をより知って頂くために

幼少期~青年期

「いい子ちゃん。」(何も考えていないだけ)

私は、いい子ちゃんでした。
父親が昔かたぎのキビシイ父親だったこともあり、大きな悪さもせず、小学校の成績は上の下あたり、水泳を習っていたので、運動もそこそこ出来ていました。あまり「勉強しろ!」と言わない両親でしたので、それはぬくぬくと育っていきました。
また、長男なので、田舎の祖母からは溺愛され、幼少期は何の不安もなかったことを思い出します。人生、ちょろいなとさえ思っていました。
そのいい子ちゃんっぷりはなかなかなもので、中学校の入学式には、「新入生 代表挨拶」を任されるほどでした。
しかし、高校くらいになると、限界がやってきます。努力をしない凡人は、何もできなくなってしまうのです。このころになると、何かを突出して成し遂げることは一切なくなりました。しかし当時は、「こんなもんかな~」といったスタンスです。早くも惰性の人生です。

この何も考えていない人生がうまくいくはずもありません。少しずつ少しずつ、そのしわ寄せが迫ってきていました。
そして、このことが将来大きな壁となることを、当時は知る由もなかったのです…

社会人デビュー

「うちの会社で、将来何がしたいのですか?」

恥ずかしながら、新卒では何も考えずに就職しました。
将来コンサルタントになる人は、昔から意識が高い!というイメージかもしれませんが、私は違います!

さて、「うちの会社で、将来何がしたいのですか?」というのは、入社当初に人事の方から受けた質問です。その時、私がなんと答えたかと言いますと…
「えっと…社長になります。」
と答えました。

そうです。「サラリーマンをやるのに社長を目指さないって、なぜ?」と本気で思っていたのです。
ゆとり学生、ここに極まれりですね。

このまま口だけ男で終わるのが目に見えていますが、私の幸運がここで発揮されます。当時の社長が「最近は、小さくまとまっている奴がおおい。なかなか見どころのあるやつだ!」とプラスに取ってくれたのです。

その後は、社長の近いところで仕事をさせていただき、ゆとり学生に社会の厳しさをみっちりと教えていただきました。ここでは書けないような言い方も多くされましたが、何も考えていなかった私にとっては、とても大切なターニングポイントでした。

社長の社員を背負う覚悟、人生をかけて情熱を注ぎ、常にスイッチONの姿をみて、憧れの気持ちがわいてきたのです。そして、社長のうしろ姿を追いかけているうちに、何事も中途半端だった私が、一生懸命に取り組むことの大切さ、一生懸命に働く楽しさを感じるようになっていきました。社長には本当に感謝しています。
やる気スイッチONの私は、懸命に仕事をし、3年目にはグループ会社の取締役に就任しました。今思えば、思い切った抜擢人事です。

絵にかいたようなサクセスストーリー!と思いきや…ここで大きくつまずきます。一生懸命仕事をしているのはいいのですが、それ故に、視野が非常に狭くなっていました。何も考えられない人間が一生懸命働くと、自分が中心になってしまうのです。

一人一人の社員のことなんて考えられるわけがありません。最低の上司の出来上がりです。
ところが、私は「自分は一生懸命働いている!正しいことをやっている!」と思っています。会社の指示、やった方がいいと思うことを、ガンガン上から押し付けていきます。
当時の部下は、私より年上の方が多く、男性より女性が多い職場でした。
客観的に見たら、「20代の若造がなにを偉そうに」ですね。

こんなことをしていたらどうなるか? もう皆さんおわかりですね。
そうです、まったく上手くいきませんでした。手を抜いていたわけではありません。その逆です。休みもなく、懸命に働いていました。しかし、全くうまくいきません。
どんどん部下の心が離れていくのがわかります。社長や他の役員からも「何をしているんだ…」と冷たい目で見られます。

私「レイアウト変えましょうよ。読んだ本にはこうやった方がいいって書いてあるから!」
部下「いやいや、なに言ってるの!昔からこれでやってきてるんだから!」
私「だから!変化がないとジリ貧ですって!」
部下「偉そうに!なにも知らないくせに!なんなの!!」

あせればあせるほど、ドツボにはまっていきます。
いい子ちゃんの限界が来ていたのです。
自分を外から眺める、客観性が足りなかったのです…

私の先入観・思い込みで、多くの人を不幸にしてしまいました。
私の心ない言葉で、退社された方もいらっしゃいます。
私の無神経な態度で、傷つけてしまった方もいらっしゃいます。

今でも当時の事を思い出します。
あの時、
「僕が上司でなければ、皆はもっと幸せだったのではないか?」
「僕がもっと人の気持ちを考えられたら、大人だったら…」

私はこの経験から、今の私のマネジメントの軸となっている、
「人は、正しいことではなく、好きな人の言うことを聞く。」
「その人の言葉を聞き入れるかどうかは、その人との関係性で決まる。」
そして、そのためには「相手を肯定し、まずは聴くこと」という、皆が知っているような当たり前のことを、言葉ではなく、実体験から学びました。

この大失敗を反省し、少しでも改善したい、組織を良くしたいと、よりいっそう懸命に働きました。
けれども、一度狂った歯車は、すぐには直ってくれません。
「それでも…それでも…どうにかしたい…」という日々を過ごしていました。

数ヵ月が経った頃、ようやく改善の兆しが現れます。
部下から「前田さん、なんか最近変わったな…」という言葉が聞こえるようになってきたのです。組織も少しずつ良くなっていくのがわかります。
手ごたえを感じ始め「よし!よし!これからだ!」という時…今度は、急に体が動かなくなりました。
朝起きると息苦しく、外に出ても、足がフワフワしてしまい、うまく歩けなくなってしまったのです。その時、第一子を妊娠していた妻に、駅までついてきてもらうという日々が続きました。それでも、この機会を逃すまいと、懸命にもがいていました。

ところがある日、妻から 「一回リセットしてみてもいいんじゃない?」という一言があったのです。

勝気な妻は、あまり弱気なことを言うタイプではないので、非常に驚いた記憶があります。
私も、生まれてくる我が子や妻に迷惑をかけたくなかったので、「辞める」という考えはまったくありませんでした。しかし、この妻の一言で、いまが一番家族に迷惑をかけているのかも…と気づくことができました。(妻に格好つけたかったので、「逃げたくなかった」のは秘密です)
後になって聞いてみると、あまりにも私の姿が痛々しく、もう限界と感じていたようです。

組織に改善の兆しが見えはじめて矢先の出来事でしたので、とても悩みました。
しかし、「何のために働くのか?」がすっかりわからなくなっていた私は、30歳という節目の年ということも手伝い、もう一度人生を考え直そうと、転職を決意します。
自分がより成長でき、情熱を傾けられる転職とするために、「大失敗の原因となったコミュニケーションを磨ける仕事」、健康食品の仕事を通して情熱があった「人々の健康と幸せに関わる仕事」につきたいと考え、製薬メーカーの営業への転職を決めます。「これまでの経験を必ず活かす!」「同じ失敗は絶対にしない!」と心に刻み、新たな道を歩むことになるのです。

同じ問題は繰り返す

「ドカン!ガシャン!!」

さて、無事製薬メーカーの営業に転職し、「今までの経験を活かして大活躍!」だと、小説のようでかっこいいのですが、現実はそうはいきませんでした。
転職を機に張り詰めていた気持ちは一気にしぼみ、他人とのコミュニケーションも消極的になっていきます。「こんなもんでいいかな…」と自分の殻に閉じこもるようになりました。いい子ちゃん時代に逆戻りです。

周りともうまくやりますし、成績もそこそこ出すのですが、もう一歩、最後のもう一押しをする気持ちがなくなっていました。
「こんな感じで食べる為の仕事も悪くないかな…」という気持ちでした。

ところが不思議なもので、「課題は解決しないと繰り返す」のです。
それが、転勤し上司が変わった時に表面化します。

新たな上司は、全国でも有名な「熱血!!上司」だったのです。
その指導は非常に厳しく、関西弁でまくしたてられる毎日です。
熱血上司が特に重視していたのが、考えや提案を相手に響くように伝え、社内・社外に関係なく信頼関係を構築できる「コミュニケーション力」でした。

気が抜けて自分の殻に閉じこもっていた当時の私からすれば、正直いい迷惑でした。
熱血上司は私の殻を、「コン…コン…」なんて生易しいものではなく、ハンマーで「ドカン!ガシャン!!」と壊してくるのです。

「いや…居心地いいんだから、ほっておいてよ…」
これが、私の気持ちでした。

しかし、そんな毎日が続く中、私の心に少しずつ変化が訪れます。
「こんなエネルギーのある人に出会う事は人生に二度とないかもしれない。」「そもそも、コミュニケーション力を身に付けたくて転職したんじゃないの?」「あれ、いまダサすぎない?」という気持ちが出てきたのです。

そして、「もう一回、スイッチONで頑張るか!」と決意を新たにします。

覚悟を決めた後は、すぐに行動に移しました。熱血上司から盗めるものを盗もうと決めました。守破離の守の徹底です。
毎日毎日上司に電話し、毎回の電話で30分~1時間のご指導をいただきながらも、毎日毎日、土日もしつこく電話し、そのスキルを盗むことを徹底しました。当時は、妻よりも上司と話をする時間が多かったと思います。

この経験から学んだ一番大きなことは、成長には当たり前のことを当たり前にやるしかない。そして、その当たり前のレベルを上げていくしかない。というシンプルなものでした。

実践の成果は少しずつ現れ始め、スムーズに社内の同僚・社外のお客様との信頼関係を結ぶことができるようになっていきます。
そして、決意から1年たった頃、社員数1000名以上の成績上位20名が受賞する優秀社員賞を獲得することとなりました。 この成果が得られたのは、私一人の力ではなく、上司や同僚の協力があってこそです。私はようやく、1人の力で出来ることには限界があることに気付いたのです。

受賞記念パーティーの席で、これまでの仕事人生を振り返っていた時、あることに気付きます。
それは、とてもつらかった「取締役時代」、そして、関西弁で毎日まくしたてられた「熱血上司時代」は、人間としても社会人としても、とても成長できた!ということ。
そして、殻にこもっていた「無気力営業時代」は、まったく成長できていなかった、ということに気付いたのです。
人間の成長には、ある程度の負荷が必要であり、そして、良くも悪くも人間は慣れる生き物である。ということを、経験からリアルに感じることが出来ました。

また同時に、多くの人に支えられ育てられたという経験から、人を育てる「教育」という分野に興味がわいてきたのです。

天職との出会い

「それ、ほめてるの?(笑)」

私は、営業活動の中で、先生方の前で製品説明のプレゼンテーションをする「説明会」に力を入れていました。説明会を軽視する営業もいましたが、私は、忙しい先生方に15分~30分、集中して話を聞いていただける非常に重要な機会だと捉えていたからです。
もともと人前で話すのが苦手でしたので、練習を工夫することにしました。①資料を作る②セリフを考える③話す練習をする④先輩に見てもらう⑤ビデオをとって練習する⑥妻に見てもらう(専門家以外でも理解できるのかチェック)ということを毎回繰り返しました。

2年以上の月日が流れ、200回以上の練習を積み重ねた時、再び転機が訪れます。

熱血上司と同行営業をしていた時のこと、「お前は、人前で話して、なにかを伝えるのは、悪くないな。」と、初めてほめられたのです。
「それ、ほめてるの?(笑)」と熱血上司の不器用さをほほえましく思ったのと同時に、自分では全くそのように思っていなかったのは、なぜなのかを考え始めました。そして、自分がやりたいこと、一度きりの人生で、自分を目一杯活かせることはなんなのかを考えました。
考えてみると、私は「人前で話し、人の感情を動かす人」に憧れがあったのです。歴史的な演説を見るのも好きですし、漫才や落語も大好きです。学生時代に「こんな人達のようになれたらいいな…」と思っていたことを思い出しました。しかし、「緊張しい」の私は、その気持ちにふたをして、「人前で話すのは苦手」と決めつけていたのです。それでも、心の奥底にある憧れから、営業のプレゼンは懸命に練習していました。それが、熱血上司には届いていたのです。
自分が思っている向き不向きというのは、大したことではなかったのです。つまりは、自分がどうなりたいか、そして実現に向けた行動を積み重ねることが大切だということです。

私が喜んでいると、熱血上司からこのような言葉がありました。
「俺は嫌われてもいい。けど、俺のもとにいたやつが他のところに行って、“いい人を育ててくれてありがとう”と言われるのが一番うれしい」

この出来事がきっかけで、ただ知識を伝えるだけでなく、その人のことを本当に願う「教育」という分野に強い興味を持つようになりました。(実際に、熱血上司から巣立った人は、感謝をしている人が多く、会社の要職についている人が多いのです!)

教育への気持ちは日に日に強くなり、ついには異動届けを出すことになります。
異動届けを出したところ、非常にタイミングよく、研修部が若手を1人募集しているタイミングでした。
話はトントンと進み、それから半年後に、研修部への異動を果たします。

研修部での仕事は、とてもやりがいがありました。同僚にも恵まれ、毎日充実した生活を送っていました。研修部の上司から言われた「研修は人に教える立場であるから、勘違いしやすいんだ。研修は教える側、教えられる側の両者で作るものだから、偉そうにしたらダメだよ。」であるとか、「研修時間だけで、受講生の人生は変えられないかもしれないけど、研修内容に興味を持ってもらえれば、自分から勉強するようになる。そうすれば人生は変わるかもしれない。」という長期的な視点、受講生の将来を考えた研修マインドは、私に大きな影響を与えました。
研修は「受講生の人生を幸せにも、不幸にもできる」「だからこそ、最高の研修を目指し、日々努力を続けなければならない。」と、仕事と社会のつながりを強く感じた経験でした。
そして、研修部での努力が実り、異動1年目に再び優秀社員賞を受賞し海外研修にも参加することができました。

この経験を経て「何の為に働くのか」が明確になってきました。
それは、「そうか…僕は人が将来幸せになることに関わり、世界が少しでも平和になることが、うれしいんだ。」というものです。(ちょっと大きな話になりました…)

経営戦略研究所との出会い

私は、研修を一生の仕事にしようと考えていました。人生で一番やりがいをもって、働いていました。
受講生の皆さんが将来幸せになれるように、より良い研修の為に努力を続ける毎日です。そんな充実した日々を過ごしていた中、衝撃が訪れます。

医療経営の勉強をしていた、ある日のことです。「医療 コンサル」で検索し、コンサルタントがどのような視点で医療経営を見ているのか調べていたところ、ある会社のリクルートページにたどり着きます。名前も聞いたことのない会社でした。第一印象は「なんか意識高そうだな…」という軽いものでした。
しかし、興味をもって読んでいくと、会社の理念、仕事スタイル、先輩紹介の一言一言に大きな衝撃を受けました。その中でも、「理念と行動」が一致していることに驚きました。

多くの企業で「立派な理念」を掲げています。しかし、それをトップから社員全員が共感し、行動に反映できている会社がどれだけあるでしょうか?経営戦略研究所は、それを体現している稀有な会社であると感じました。
自分の「何のために働くのか」が明確になればなるほど、会社の「何のために存在するのか」、つまり「理念」が気になっている時期でもありました。

さらに、医院経営に関わる全てを共に作り上げていくというコンサルスタイルは、私が今まで経験してきた「マネジメント」「経営者としての視点」「コミュニケーション」「教育」の全てが活かせる、運命的な出会いであると感じました。

「無限の人に無限の気づきと無限の豊かさを与えること」

この理念を通して、「関わる皆さんの幸せに貢献したい」と強く感じました。
そして、入社した今、それが実現できる会社だと確信しています。

ここまで、お読みいただいた皆様へ

私は、順風満帆のエリートではありません。
読んでいただいたように、多くの失敗をしています。
しかし、その失敗があるからこそ、人の立場に立ち、人の気持ちを理解し、寄り添い、ともに悩み・考え、それを形にし、実践していくことができます。
そして、経営者の経験、営業の経験、研修の経験と、様々な経験をしたからこそ、短期的でその場だけの提案ではなく、長期的・大局的な視点からお話をすることができます。
また、経営者の情熱、努力、苦労、孤独感は、経験してみないとわからないことだと思います。私は、経営者の気持ちを汲み取り、ご相談させていただくことができます。
是非一緒に、全員が日々成長し、イキイキ働ける医院づくりを目指していきましょう!