地域一番ディレクター渡邊 健二

略歴

千葉県出身。早稲田大学を卒業後、リクルートに新卒で入社。

8年の在籍期間で千葉・福岡・熊本・札幌と4つのエリアで規模・業種・地域の異なる2000社を担当。主にタウンワークの拡販を行いながら、採用成功のノウハウを学ぶ。

営業(セールス)・チーフ(マネージメント)と、異なるそれぞれの分野において月間MVPを複数回受賞。千葉時代には全国における最優秀グループ賞を受賞。5名~60名の様々な規模の組織で、累計100名以上のメンバーと関わるリーダー業務を経験。

支援型リーダーシップを軸とした育成・マネジメント手法を確立する。自分が育成したメンバーからも全社MVPを輩出人の強みを活かす育成・プロジェクト運営を得意とする。この前職で培った経験に実践会メソッドを組合せて、地域一番医院作りに取組む。

・家族構成:妻、12歳と9歳の娘
・12月10日生まれ 射手座 A型
・動物占いは「大きな志を持ったサル」

渡邊をより知っていただく為に

幼少期

千葉の八千代市という、家の近くには森があるような都心までは電車で1時間30分程の土地で育ちました。

父・母、そして三兄弟の次男坊として幼少期を過ごします。 当時証券会社に勤めていた父の転勤の関係で、3つの幼稚園に通いました。 幼いながらも、既に仲の良い集団の中に入っていくことに、少しばかり寂しい思いを抱えていました。

小さい時は常に兄の後をついて回っていました。 スポーツ万能で何事も比較的器用にこなす兄に比べて、常に少しずつ出来ないことにコンプレックスを抱いていました。 水泳は泣きながら逃げ出し、兄が得意としていた剣道は、防具の蝶々結びが出来ずに入会すら出来ませんでした。

そんな中でも唯一続いたのが野球です。 小学校1年生から始め高校3年生まで続けました。 兄との比較から、自分に自信を持てずに唯一の特技は一生懸命取組むことだと思っていました。 野球も特にうまいというわけではなく、監督からも「バントを練習しろ」と言われ、皆がバッティング練習をする中、一人地味なバントを練習し続けるという経験も。 夜練習から帰って部屋で泣いたこともありました。

小学校低学年の県大会への出場をかけたライバルチームとの決勝戦。 相手のピッチャーのボールをチームの誰一人として打つことが出来ません。

自分の打席でセーフティバントのサインが出ます。これで成功しなかったらいる意味がない。手に汗を握りながらバッターボックスに立ちました。今でもそのシーンだけは覚えています。 意表をつくタイミングでバントの構え、三塁線に転がし大成功。

その日初めての塁に出ます。そこからピッチャーが崩れ、後続のバッターがヒットを打ちさよなら勝ち。県大会への切符を手に入れました。

"人にはそれぞれ役割があり、その道で努力を続ければ報われる"ことを学びます。

親から受けた影響

父は高校卒業後、証券会社に入社。入社後は大卒との差に凄く苦しんだ経験から子供には大学に通ってほしいと思っていたようです。

特に早稲田大学に通いたいと思っていたようで、小さいころから行くなら早稲田と洗脳されていたようです(笑)

父は社会に出た後に夜間の大学に通い、同期の中でも出世頭になったそうです。 父から譲り受けた座右の銘は「継続は力なり」。 努力を続ければ、状況は打開出来ることを父は実践していました。 これは今でも私を支える言葉です。

一方母も高校卒業後、証券会社の一般職として入社。 母は人の気持ちがわかる人でとても大切なことを教わります。 それは私が身体的な特徴からいじめを受けたことがあります。

母親はそのことを察したのか 「自分がされていやなことは、人にはしてはダメ」 「人の良いところを見るようにしなさい」 「自分がいいと思うことをしていれば必ず周りは理解してくれる」 ということを教えてくれました。 この考え方は今でも自分の行動基準であり、考え方を修正する時の軸となっています。 そんな努力家で野心家の父と、人の気持ちのわかる芯の強い母の元でバランスよく育ちました。

挫折の多い学生時代

早稲田大学卒業と聞いて、皆さんはどう思われるでしょうか? 優秀ですねと言われることも多いですが、それは違います。

私は中学受験から始め、浪人して合格するまで実に早稲田の系列校を10回受けています。

つまり9回は落ちているのです。

それだけのチャンスの機会をくれた親には本当に感謝しています。

小学校時代は3年生の時から、平日は塾に通い毎日朝の4時に起きて勉強をしました。

そこまでしてもその当時の塾の先生から言われたことは「早稲田は無理ですね」と他の中学校を進められました。 そして中学時代はその進めてもらった学校にも落ちました。

公立の中学校に入るとそこで学年1位をとると決め、更に勉強に励みました。 中学1・2年は1位をずっとキープし、英語のスピーチコンテストの代表にも選ばれます。しかし、中学校の3年生になると周りが一斉に勉強し始めます。

すると何が起きたか。一気にテスト順位を抜かれたのです。 流石にショックでした。こんなに勉強してきたのに・・・。 そんな時にも母の言葉に救われます。 「私は高卒だし、もともと頭のいい親ではなくてごめんね。 だから他の人の2倍3倍努力するのよ。」 そう言って一冊の本をプレゼントしてくれました。 その本は人には無限の可能性があり、誰しもがその可能性を手に入れることが出来るという内容の本でした。

そうして9回落ち続けながらも10回目で初めて合格。 その時の母親の喜んだ顔は今でも忘れることは出来ません。

なぜ継続して頑張れたのか。最初は認めてもらいたい。 という幼少期の思いからだったように思います。 誰にでも可能性はある、頑張れば報われる、認めてもらえる。 「成功の秘訣は成功するまで続けること」 これは、私の人生のテーマにもなっています。

仲間と共に組織を作りあげる

念願の早稲田大学に入学。 真面目一辺倒で自分のことを面白味にもかける。 そんな自分を変えるためにも立ち上げて間もないスポーツ系オールラウンドサークルに入ります。 同期・先輩・後輩に恵まれ気づけば自分の周りにはたくさんの仲間がいました。

しかし、大学3年生の時に事件が起こります。 後輩が全員辞めると言い出したのです。自分たちは一生懸命やっているつもりでしたが、後輩たちからは「自分たちが好きだったサークルではない」 そう言われショックでした。

原因を考えると自分たちは自分たちのやりたいことしか伝えていなかったのです。 全く後輩たちの話に耳を傾けていませんでした。 早速後輩を飲みに誘い、自分1人対後輩数人。耳の痛い指摘をもらうこともありました。 悪いと感じたことは謝りました。

すると、「健二さんの気持ちはわかりました。残ってこのサークルを健二さんたちと一緒によくしていきたいです」 そう言ってくれた後輩は言葉通り自分たち以上に意欲的に様々なチャレンジを続けてくれました。

今ではそのサークルは14年目を迎えています。

組織が一体化し、継続的に発展していくためには、"人を大切にする"ということを体感出来た経験です。

前職での営業スタート

新卒でリクルートに入社。営業職としてスタートしました。 仕事を選んだ基準は、仕事が楽しいと人生が楽しいという理念に共感したことと、ハードワークであることでした。

1日の中で占める割合の大きい仕事を楽しく出来れば、人生は楽しくなるという考えに、ワクワクしました。

自分が作った求人広告を見た求職者が新たな職場と出会い、そこでの仕事が楽しくなれば、家に帰っても穏やかに暮らせ、仕事で出会った人との繋がりも出来ることで人生が豊かになる。 その世界が実現出来る可能性のある仕事にとても魅力を感じたのです。

一方で様々なコンプレックスを抱えていた自分は「早く成長したい!早くいろんなことを経験したい!」という思いがありました。 当時のリクルートは営業力があり、マネジメントも厳しいことで有名でした。 どうせやるなら一番厳しいところで鍛えたい。そう思っていました。

よく誤解されていたのですが、私は営業どころが、人とコミュニケーションを築くことに実はとても苦労していました。 気づいたのは大学時代でした。学生時代、一人でいることが多かったせいか、短時間で関係性を築くことに苦手意識を持っていたのです。

しかし、入社してすぐに与えられた仕事は"新規開拓営業"です。 それも毎週180社の電話と90社の飛び込みで、常に新しい顧客と会い続けるというものでした。

苦手意識のど真ん中の仕事にチャレンジし続ける毎日のスタートです。 克服するためにも朝は誰よりも早く出社して終電まで毎日働き続けました。 少しでも成果が出るようにとにかく行動をし続けました。

それでもなかなか成果が出ません。毎日の先輩との振り返りでは 「健二は今日1日で何をしていたの?まだ開いているお店があるから今から飛び込んできたら?」 その時既に22時を超える社内で、自分の覚悟を確かめられるシーンもありました。 行動することが目的となり成果が出ない日が続きます。

そんなある日、たまたま経営者が席に通してくれたことで大きな気付きを得ます。 「実は正社員の求人を考えているんだけど、どうやって採用をしたらいいかわからない。」 という悩みを話してくれたのです。 次の日にその悩みに対して考えたことをワード5枚にびっしり書いて持って行きました。 すると「ここまで考えてくれてありがとう。契約するよ。」と言ってくれたのです。

自分の営業のスタンスの基礎が出来た瞬間でした。 それは「人の悩みを解決する」ということです。

それからは、1年間、毎日毎日電話と訪問で、経営者の悩みを聞いては解決策を提示するということを繰り返します。

そして、自身としては1年間が終わるタイミングであり、グループ全体では全国の最優秀グループ賞がかかった最終日の締切5分前に新規契約を頂き個人の目標を達成します。 グループでも全国最優秀グループ賞を達成することが出来ました。

様々な地域・職種で№1を経験

社会人2年目より熊本へ転勤となります。そこでリーマン・ショックを経験。 企業の求人数が減る中でも、培ったスタンスを軸にこういう時こそ経営者は何とかしたいと思っているはずだ!強い気持ちを持ち向き合うことで初の月間MVPを受賞。

またこの時に最大50名いた組織から8名への大幅な組織体制の変更も経験しました。 組織が大きく変化する中でモチベーションがダウンするメンバーも多数いました。 自分がやらなくてはという当事者意識が芽生えたのもこの時期でした。

その後福岡へ移動します。4年間在籍しましたがその期間に営業、内勤、内勤チーフ、営業チーフを経験します。

これは、衛生士・助手・幹部スタッフ・ドクターを経験するようなイメージです。 様々な立場の職種を経験出来たことで、それぞれの仕事の大変さ、面白みを経験出来たことで様々な立場の人の気持ちを理解出来るようになりました。

そうしてメンバーの強みを把握し役割を任せて支援するマネジメントでチーム表彰も複数回受賞することが出来ました。

その頃には慣れ親しんだ福岡に愛着も感じ、ずっと住んでもいいと感じるようになってきました。そして中古マンションも購入しました。

しかし何とその4ヶ月後に札幌への人事異動。 九州から北海道への大移動です。

札幌では、チーフ業とは別に、グループの業績担当の役割を担います。 ある時メンバーから「チーフは何もしないのに口ばかりですよね」と言われてはっとします。 自分でも気づかないうちに、業績のことばかりを考えるようになっていたのです。 これではいけないと、メンバーのことを改めて考えるようになりました。

同じくして、お客様思いの一人のメンバーが営業の全社1位を目指して頑張っていました。

自分は何とかしてこのメンバーを1位にしてあげたい。 出来なければチーフである自分の責任だ。と強く思うようになっていました。

1位を目指すというのは、過酷な道のりです。 頑張れば頑張るほど、不安になり、本人は毎日走りきっているので、自分がやっていることがあっているのかわからなくなります。

ある時は「もうダメだと思います。ありがとうございました。」 と携帯が切れて音信不通になったこともありました。 営業先から帰ってこれなくなってしまったこともありました。

しかし諦めたくない気持ちを知っていた私は粘り強くメンバーと向き合い続けました

「そのお客様はAさんの提案を聞きたがっていると思う」 と過去お叱りを受けたことのあるクライアント先に事前の準備だけ一緒に行い、あえて一人で行くように突き放したこともありました。

自分自身もこれであっているのか、不安な毎日でした。 しかし絶対に1位をとらせるんだと決めていました。

そのメンバーはかなり荒削りでしたが、クライアントが採用出来るまで妥協しませんでした。 そんなメンバーが1位になるべきだ。そう思っていたのです。

そして、走り切った半年後にメンバー初のMVPを受賞。 そのメンバーが大きく牽引し結果としてグループでも最優秀賞という結果につながったのです。

経営戦略研究所との出会い

そんなある日、約7年ぶりに弊社の萩原より連絡が入ります。 久しぶりに出会った萩原からは 「今やっている仕事は人の一生を変えることになるようなやりがいのある仕事だよ」 「よかったら一緒に働かないか」と誘いを受けました。 求人の仕事は、たくさんの人に仕事を届ける一方で、採用以外のことや採用後には関わりきれないことに歯がゆさを感じていました。 むしろ採用後のほうが大変であり、そこに関われる仕事にチーフ業を通してやりがいを感じていました。しかし異動や転勤も多い会社では期間が限定的で、思いがあっても継続する難しさを感じていました。 そのことを見透かされたような一言でした。

すぐには返事が出来ませんでしたが、その後代表の岩渕と話す機会をもらいました。 「うちの会社は売上目標は立てない」「規模拡大だけを求めて上場はしない」

といった考えは全てクライアント目線で考えられており、どれも共感出来るものばかり。 そして、最初の話から1年以上の期間を経て決断をし経営戦略研究所に入社。

一人でも多くの人に、自身の可能性を感じてもらい、仕事が楽しいと言える環境を作れるコンサルタントとして地域一番医院創りに励んでいます。